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「私は小学校にあがるころにはもう母がいなかったから、ここから先のお手本がないのよ。
母親という存在のお手本が。」
そう言うのが精一杯だったように、徳香はふっとため息をついて首をすくめた。
「だめね、こんな弱気な母親は。サキちゃんに申し訳ないわ。」
徳香は、自分の自信のなさにあきれた、というふうに自嘲ぎみに笑った。
「大丈夫。子供をもつ親なら、きっと誰もおんなじように不安ですよ。」
マスターは、とくに「大丈夫」という部分を強調して言った。
そして、家族への思いが深いがゆえに、漠然とした不安に包囲されている徳香のために、
春という季節にぴったりの、清々しいスープをつくろうと、コンロに火をいれた。

あたたかくてトロトロとした食感が、徳香ののどを通り過ぎて、じんわりと染みていく。
「親子の関係に、きっとお手本なんか無いと思うよ。」
マスターの言葉も、一緒に心に染みていく。
「ただ徳香さんが子供のときに、お母さんがそばにいたらしてほしかったことを、
これから、そのままサキちゃんにしてあげればいいんじゃないかな。」
そうね、それなら簡単。徳香は、なんだか、ホッと胸のつかえがとれたような気がした。
チューリップの絵をかいてきたら、「とっても上手」と笑顔でほめてあげよう。
それだけじゃない。あれもしてほしかったし、これもしてほしかったから、
サキちゃんに、あれもしてあげよう、これもしてあげよう。
そう考えはじめたら「なんだか不安」という気持ちが、「なんだか楽しみ」に変わっていった。
カズトの目には、徳香が母親の顔に戻ってきたように思えた。
END.
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